龍馬伝:「龍馬博(土佐・龍馬であい博)」開催中!高知のええもん紹介します。

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龍馬伝・土佐・龍馬博いよいよ始まりました。龍馬伝を見て「土佐・龍馬であい博」へお越し下さい。
「土佐・龍馬であい博」は、2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送にあわせて高知県全域で開催される坂本龍馬や三菱の創業者岩崎弥太郎など体感していただけるイベントです。
2010年1月16日から2011年1月10日までの間、「高知・龍馬ろまん社中」「とさてらす」「安芸・岩崎弥太郎こころざし社中」「土佐清水・ジョン万次郎くろしお社中」「ゆすはら・維新の道社中」を中心に多種多様なイベントを開催しています。
またNHK大河ドラマ「龍馬伝」龍馬博の開催に合わせ、高知県内のええもん(良い品)を紹介します。
何れも高知県産の商品で自信を持って紹介できるものばかりです。龍馬伝と共に龍馬(竜馬)が生まれ育った高知県をご堪能下さい。

龍馬伝一口メモ:坂本龍馬
坂本龍馬は竜馬と書く事もあります。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」や小山ゆうの「お〜い!竜馬」などでは竜馬でしたので、こちらと思われている方も多いようですが、本当は坂本 龍馬 直柔(なおなり)。龍馬は通称です。
明治16年に高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた「汗血千里の駒」で紹介され、さらに日露戦争の日本海海戦直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」といったという逸話が新聞等で紹介され、龍馬の評判が全国に拡がったようです。龍馬伝では、第1話で岩崎弥太郎に取材に訪れる記者として坂崎紫瀾が登場しました。
戦後は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」や小山ゆうのマンガ「お〜い!竜馬」等により、幕末トップクラスの有名人となりました。
龍馬伝では触れられていませんが、坂本家の本家は「才谷屋(さいだにや)」という土佐一の豪商で、また郷士坂本家自体も広大な土地を有していました。龍馬さんは実はお金持ちのお坊ちゃんだったのです。
龍馬伝一口メモ:郷士(下士)
坂本家は龍馬の4代前の才谷八郎兵衛直益が郷士株を買って長男の八平直海に坂本家を名乗らせた所から始まっています。
龍馬伝をはじめ、テレビや小説では郷士(下士)というと半農半士の軽輩として描かれる場合が多いのですが、土佐の郷士は江戸時代の山内家が元々長曾我部家の一領具足を藩政に組み込むために定めた制度で、他藩の郷士(下士)とはかなり意味合いが違っています。
一領具足は全国的には国侍と呼ばれる人たちでした。前田利家や山内一豊の妻の実家のような身分です。平時には農作業に従事しますが戦となると騎馬に乗り従者を従える武者だったので、結構プライドが高かったようです。
土佐以外ではこういった国侍は戦国武将の家臣となりましたが土佐では一領具足と呼ばれ、長曾我部に属してはいましたが独立性が高く直接の知行地を持つ身分でしたので、経済的には豊かだったようです。
龍馬伝一口メモ:岩崎弥太郎
龍馬伝の岩崎弥太郎はかなり汚く描かれていますが、実際にはそれほどでもないようです。生家が今も残っていますが結構立派です。
曾祖父の代に郷士株を売ってしまい、地毛浪人となっていたわけですが弥太郎が江戸へ行く際、両親が土地を売ってその費用を工面したということですから、土地は持っており普通に暮らしていたようです。
そうでなければ、学問を修めることも出来なかったと思われますし、後に吉田東洋、後藤象二郎らに見いだされ幕末には中老格(土佐藩権少参事)にまで出世することもなかったでしょう。
龍馬伝ではどん底からのサクセスストーリーのようですが、ちょっとかわいそうな描かれ方です。
龍馬とは、あまり相性が良くなかったとも言われますが、土佐商会・海援隊等の会計係として腕をふるい、海援隊のいろは丸が紀州藩船と衝突沈没した際の交渉などでは岩崎弥太郎の交渉によって賠償金を得る等、交渉・商売に関しては傑出していたからこそ、後に三菱財閥を起こすことが出来たのでしょう。
龍馬伝では後半岩崎弥太郎が中心となるようですね。
龍馬伝一口メモ:一領具足
龍馬伝で、下士として描かれる郷士は少し変わった経緯で、郷士の身分とさせられましたので高知県以外の方には解りにくいと思われます。
後に郷士株を買ったり、学問等により士分に取り立てられるなどで、郷士になる場合もありますが、土佐藩の郷士は長曾我部時代の一領具足を、山内家が郷士という身分にしたことに始まります。
一領具足は、他県では半農半士の軽輩というイメージかと思われますが、長曾我部家では上士格でした。その為、軍議にも参画し発言力もあったのです。高知県高岡郡中土佐町久礼の佐竹氏も一領具足ですが久礼西山城の城主でもありました。他にも大垣城(実態は小さな砦)等の城主もいました。(小さな石碑が残っています。)佐竹氏などは直接織田信長や豊臣秀吉から陣羽織や大判などを拝領する身分だったそうです。
長曾我部軍は長曾我部の家臣団と国侍の連合軍というのが実態だったろうと思われます。その為、関ヶ原後、長曾我部家が徳川に屈した後も独自に抵抗を続けたわけです。
山内家はこれら旧一領具足を郷士として厳しい身分差別で支配してきましたが、多くの郷士は国侍として実質的に土地を所有し裕福であったのとプライドの高さから学問に励む傾向があったようです。
龍馬伝では下士であることの身分差別が、坂本龍馬や岩崎弥太郎らによる維新の原動力となったような描き方ですが、長曾我部系の土佐人としてはプライドと実践を重んじる南学(土佐発祥の朱子学の一派)の教養こそが原動力と思えます。
龍馬伝一口メモ:岡田以蔵〔人斬り以蔵〕
人斬り以蔵と呼ばれる岡田以蔵については、足軽という説と郷士という説があり定まっておりません。
岡田家が郷士であったのは間違いないのですが、龍馬伝でも岡田以蔵は軽輩の足軽とされるようです。
土佐藩では、郷士は下士ではありましたが決して軽輩ではありません。足軽は士分の内では軽輩ですので、郷士である岡田以蔵がより身分の低い足軽というのはおかしいように思えますが、父親の代から足軽であったことも間違いないようです。
つまり、郷士であり足軽だったことになります。岡田以蔵が人斬り以蔵となりえた訳はここにあるのではと思われます。
土佐藩では郷士は下士として扱われました。武知半平太のような上士格の郷士(白札郷士)もいましたが、基本的に上士となることは出来ませんでした。ところが、最軽輩の足軽は身分的には郷士よりも下ですが山内家直系の士分ですから働きによっては出世することもあり得たのです。その為以蔵の父親は次男だったこともあり、足軽に応募したものと思われます。
このことは、他の郷士にとっては出世のために手段を選ばぬ裏切り者のように見られたのではと思われます。以蔵が孤独で屈折した心を持ち、武知半平太に命じられるままに人斬りを繰り返しながら、信用されることなく口封じのために毒殺されそうになる運命をたどった原因は、ここにあるように思えます。

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龍馬伝:土佐・龍馬であい博:開催期間:平成22年1月16日から平成23年1月10日:龍馬に会える!:龍馬伝・高知